硝子に不規則に刻まれた傷跡は、痛々しく思えた。
今にも崩れてしまいそうで危ないという事で、その時間の授業は中止となった。
そこに保健室から帰ってきたオフェリアと、メアリは、誰もいなくなった教室に二人取り残されていた。
どうやら、クラスごと何処か違う教室に移動したらしい。二人は、その教室の中で顔を見合わせた。
「みんな、何処行っちゃったんだろね?」
「何処へ行ったとしても、探し出すしかないじゃない」
「そうよね」
「でも……この場所、あの時と随分カンジが違う」
昨日、この場所は、血のように紅く染まった夕日の色で染め上げられていた。
今は、教室に付いている魔電灯の光が、この教室中を明るく照らしている。
外は雨だ。
暗い色をした雲が空を覆い尽くしている。
その中で、光を放つ魔電灯の光は、オフェリアには酷く無機質に映った。
「ねえ……オフェリア。どうして、昨日?」
オフェリアは昨日、あの夕日で紅く染まった教室で、みんなの前から逃げるように走り出していった。
『約束は、破るためにあるのよ! だったら、私は……!』
その時、オフェリアは、そうきつく叫ぶと、逃げるように駆け出していった。
メアリには、その言葉の意味する所がわからない。
「……メアリは私の事、疑ってるの?」
「そ、そうじゃないよ。ただ、とてもオフェリアが苦しそうだったから」
「……そんな風に見えてたの、私?」
オフェリアは、メアリの言葉にスッと目を細めた。
「……正直ね、心配してくれるのは嬉しいの。だけど、これは私の問題だから……そんな顔しないで」
「そんな事言ったって」
「ただ、大切な物が幾つも出来たから……そんな大切なものは私の中で一つだけだったらよかったのに」
その時、メアリにはオフェリアの瞳が少し陰ったように見えた。そして、何か遠いものを見ているかのように。
「どういうこと? オフェリア、アンが帰ってこなかった日、何があったの? あの日から何か変だよ」
「そんなことない」
オフェリアは、メアリから顔を逸らす。
「でも、それでいいのかもしれない。アンみたいに、人をそう簡単に信じ過ぎるもの、どうかしら?」
「オフェリア?」
「私は、アンジェリカみたいにお人好しでも、お節介でもないわね。だから……私の事はあんまり信じ過ぎない方がいいかもしれないわよ?」
そう言ってメアリの方に向き直ったオフェリアの顔は、感情の色が失せていた。
「もう、行きましょう。これ以上、授業に遅れて何か言われるのもイヤだもの」
オフェリアは、そう言って、メアリに背中を向けて教室を出ていこうとする。
メアリは、たまらずオフェリアの片腕を掴んだ。
「それでも……それでも私は信じてるから! 私だけじゃなくて、ケインも、フウマだって!」
メアリは、行こうとするオフェリアの腕を両手で掴んだまま、真剣にオフェリアの顔を覗き込んだ。
「……バカね、ホントにお人好しのバカなんだから」
オフェリアは、メアリの真剣な顔を見て、少し笑った。
(だけど、一番愚かだったのは、一体誰なのかしらね?)
そして、その言葉を噛み殺し、自分の片手をメアリの背中に回すと、そのまま二人並んで歩き出した。
(そう……私は誓った。あの日、あの場所で)
この学園の『青の部屋』に捕らわれたアンジェリカを、必ずこの手で救い出そうと。
その少女は半年前、この学園にやってきた。
なんでも、特に優れた魔法の素質を持っているとかで、この学園に連れてこられたらしい。
初めてその少女を見たのは、教室だった。
アリス先生に連れられて教室に入ってきた少女を見た時、初めに印象に残ったのは、短く切りそろえたブロンドの髪だった。
「こっ、こんにちは。ア……アンジェリカ・カーミンです。アンは、ずっとみんなからアンちゃんと呼ばれてきたから、出来たらアンとよんでくださいね……アレ?」
その時、オフェリアは絶句した。
そして、クラス全員が、アンジェリカを押し黙って凝視していた。
その時アンジェリカは、目を真っ赤に腫れ上がらせて、教室に入って来るまで泣いていたことを皆に悟らせた。
泣き顔をしていた当の本人は、その自覚が全くなかったみたいだったが。
アンジェリカは、その赤い目で外の景色に目を止める。
そして、窓に駆け寄ると、そのまま鼻と目を窓硝子に擦り付けた。
「うーわああ!」
「どうしたの、アンジェリカさん?」
驚きの声を上げたアンジェリカに、アリス先生は落ち着いた声を掛ける。
「ミールダウンヒルの街が、凄いんだね!」
アンジェリカは、窓硝子にペタリと引っ付けていた鼻を離すと、次に出た第一声がそれだった。
「そうね、この学園は街を一望できる所にあるから、ここからの眺めは最高にいいわね」
「うわああ!」
アンジェリカは、そう歓声を上げると、また鼻の頭を硝子窓に引っ付ける。
「アンジェリカさん、この眺め、好きかしら?」
「うん、大好き! これでも私、チャキチャキのミルヒルっ子だもん!」
「まあ、そうなの? それはよかったわ。アンジェリカさんは、これからずっと、このクラスで勉強するの。好きな景色を見ながら勉強出来るなんて、とても嬉しいことよね?」
「・・・・・・」
そう、アリス先生が尋ねると、アンジェリカはアリス先生の方を向いた。
そして、その深い緑色の目には、涙が貯まる。
今にも泣き出しそうなアンジェリカの肩に、アリス先生はそっと手を置いた。
「……ごめんなさい」
アリス先生は、悲しげに一言だけそう呟く。
アンジェリカは、そんなアリス先生をしばらく驚いたように見上げた。
「大丈夫、私……もう決めてるから」
そして、手でグッと涙を拭うと、肩に置かれていたアリス先生の手を外した。
そして、アンジェリカは黒板の前にある教壇に向かうと、あろう事か、その上に飛び乗った。
「私、みんなにいっておく事があるんだよね!」
あまりのアンジェリカの行動に唖然とするクラスメイト達を気にすることなく、アンジェリカはこう宣言した。
「私、この学園から一番に脱走してみせるから!」
オフェリアはこの時の事が、あまりにも忘れられない。
それからというもの、アンジェリカは毎日のように学園から脱走を繰り返した。
その尽くが失敗に終わるのだが、それでもアンジェリカは、脱走を諦める様子はなかった。
そして、しばらくすると、一緒に脱走する仲間を増やそうと、次々とクラスメイト達に声を掛けだした。
当然というか、何というか、そんなアンジェリカの誘いに乗るクラスメイトは滅多にいなかった。
しばらくすると、無差別に声を掛けまくっていたアンジェリカは、オフェリアも勧誘しよとする。
「ねえ、一緒にここを抜け出してみない?」
その日の授業も全て終わり、さっさと自分の部屋へ帰ろうと廊下を歩いていたオフェリアに、アンジェリカははそう声を掛けてきた。
「・・・・・・」
この頃、他の人に何の関心もなかったオフェリアは、取り合おうともせず、そのままアンジェリカを無視して廊下を行こうとした。
「ちょーっと待った!」
すると、その行き先から二人の人影が廊下の陰から飛び出し、両腕を拡げてそれを阻む。
「人が折角話をしようとする時に、無視はないだろ?」
まっ先に飛び出てきて、オフェリアの進路を塞いだ男の子が、オフェリアにそう話しかけた。
「悪いけど、あなた達とお話をしている程、私は暇じゃないの。そこをどいてくれないかしら? 邪魔よ」
オフェリアは、煙たそうに少年達をあしらおうとした。
すると、その少年はニヤリと笑ってこう切り返す。
「あっれー、おかしいな? 一緒の部屋のメアリは、オフェリアは今日、一日中暇なはずだっていってるけど?」
「メアリ?」
「うん、誰を仲間にしたらいいかなって相談したら、メアリがね、オフェリアなら仲間になってくれるかもしれないって。ねっ、メアリ?」
アンジェリカはそういうと、廊下の陰に隠れていた少女に同意を求める。
アンジェリカが声を掛けた方に目を向けると、メアリがそっとこちらを伺っていた。
「アナタ、一体そこで何をやっているのかしら?」
オフェリアは、構わずメアリを睨め付ける。
「わ、私は……あの……」
「ちょっと待てって。あのさ、オレ達はオマエに話があるんだからさ」
先程、ニヤリと笑った少年は、そのオフェリアの態度に呆れた様にそういった。
「オマエ? 私、アナタにも、オマエなんて、馴れ馴れしく呼ばれる筋合いないのだけれど?」
オフェリアは、その少年の言葉に嫌悪感を覚えた。
だが、アンジェリカはポンと手をたたく。
「そっか、ごめんね、気が付かなくて。名前、オフェリアっていうの、幾ら何でも長いよね。じゃあ、略してオフィーって呼ぶ方が良いよね!」
「どうして、そうなるのよ?」
思わず聞き返してしまったオフェリアに、アンジェリカは満面の笑顔でこう答えた。
「だって、カワイイじゃない」
「カ、カワイイ?」
オフェリアは、その屈託のない笑顔をした少女に眉を潜める。
「……馴れ馴れしいわよ、あなた」
「そーかなー? でも、オフィーは友達だもん。友達はそうやって呼ぶものだよ。ねっ、ケイン」
「そうだよな」
オフェリアを足止めしている少年がアンジェリカに同意する。
「友達なんかじゃない」
「どうして?」
「どうしてって? 私はアナタの事なんか知らないし、これからもアナタの事なんて知りたくもないからよ」
「どうして、そんな悲しい事言うの?」
「私は、ちっとも悲しくない」
「アンは悲しいよ」
「アナタの事情なんて知らないわよ!」
オフェリアは、真剣な顔をしてまとわりつくアンジェリカに思わず怒鳴った。
ピシンッ
その瞬間、オフェリアの周りに冷気が巻起こった。
それは、物言う間もなくオフェリアの周りにいるアンジェリカ達に向かって吹きつけられる。
冷気は、床を一瞬に凍り付かせながら一気に拡がった。
一瞬のうちにその場にいた全員の靴底が凍り付く。
「ああっ?! オマエなあ!」
「動かない方が身のためよ!」
オフェリアの行動を察したケインが、抗議の声を上げる前に、オフェリアは早口でそれを遮った。
「今動けば、前のめりに転けたあげく鼻の頭をぶつけるか、後ろ向けに倒れて頭をぶつけるか、どっちがいい?」
今、オフェリア以外の靴底は、凍り付いて床としっかりくっついている。
そのまま足を動かそうとすれば、どういう悲惨な目に合うかは容易に想像できるだろう。
「どうして、こんな事するの?」
「アナタが、あんまりしつこいから」
オフェリアは、冷めた口調のままそう言った。
アンジェリカは、そんなオフェリアの顔を覗き込む。
「だって……オフィは、家に帰りたくないの?」
「家? どうして?」
「お父さんと、お母さん、きっと……心配してるから」
アンジェリカの瞳は、切なそうに憂いの色を映す。
「心配する人なんて、私には……いない」
「え?」
その場にいた全員が、オフェリアの言葉に耳を疑った。
「帰る所なんてないし、帰りたい場所なんて私にはない」
「オフィ、お父さんと、お母さんは?」
「……いらない」
オフェリアは、冷めた口調できっぱりと言い切った。
その場に、張りつめた空気が拡がる。
「……悲しいね、それ」
「何、同情する気?」
「前に、お父さんが言ってた。誰にだって帰る場所はあるって。だから、誰に対しても心を込めておかえりなさいって言うんだって」
「何、いってるの?」
「もし、アンの帰る家がなくなっちゃったら、どうしようもなく悲しくなると思う。だけど、アンにはまだ帰る家があるんだなって思って」
「だから?」
アンジェリカは、オフェリアにニコリと笑いかけた。
『精霊さん、お願いするね』
アンジェリカがそう声を発すると、全員の靴底にへばり付いていた氷が一瞬のうちになくなった。
オフェリアは、それを見て驚いた。
オフェリアの掛けた氷の魔法は、そっとやちょっとじゃ解けやしない。
それをアンジェリカはいとも簡単にやってのけた。
「アンは、オマエと同じで水の精霊と相性がいいんだよ。どうだ、凄いもんだろ?」
ケインが、まっ先にオフェリアの前に来て、あたかも自分がやったかのように胸を張った。
そして、アンジェリカもオフェリアに歩み寄った。
「ねえ、オフィ」
「な、何?」
オフェリアは、アンジェリカの優しい表情にたじろぐ。
「おかえりなさい!」
「はっ?」
「アンがね、これからオフィに、おかえりなさいを教えてあげる! 付いてきて」
「ちょ、ちょっと?」
アンジェリカは、オフェリアの手を問答無用とばかりに掴むと、そのまま何処かへ連れて行く。
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